秋吉台は400年前から山焼きを繰り返してきたことが2006年の九大の調査で分かってきました。
その前から草原化は進んできたはずですがその始まりは山火事なのか炭焼きが始まった結果なのか不明です。
草原化した秋吉台は陸軍創設後に演習場になります。
大戦末期の凄惨な戦いからは想像もできないのですが平時の軍隊で人が死ぬというのは大変なことでした。
秋吉台の東部は大田演習場で兵舎がありそこから見上げる松下山の上に昭和9年に忠魂碑が建てられています。
これは大正3年7月15日の演習で熱中症のすえなくなった8人を祀ったものです。
昭和17年5月には砲を曳く馬が暴れ、抑えようとした分隊長が石に頭をぶつけ亡くなっています。
これも今の展望台の上に殉職碑が建っています。
戦死ではなく事故なのですが扱いは丁重です。
大戦末期までは兵士は人として扱われています。
長府には戦死者の記念碑が建っています。
これはお墓ではなく記念碑で字は当時の陸軍大臣のものです。
先の熱中症のケースでは対策が取られているようです。
秋吉台には川がありませんから利用できる水が限られたのが今回の原因ですので水枡があちこちに作られており、現在も機能しているものもあります。
水草が生えているので年中水があるようです。
ところが最終的に日本軍は戦死者二百万人に達し、忠魂だの記念だのと言ってられない有り様になります。
敗戦後GHQの命令で忠魂碑で祀ることは禁じられ、ほとんどの英霊は丁寧な祀られ方はされず、のちにまとめて靖国神社になってしまいました。